第2回 言葉は若返り、そして人間は老いていく

たまに、「正しい日本語テスト」のような話題が、マスコミに乗ることがあります。

典型的な例が「檄を飛ばす」という表現。もとの意味は「自分の意見を多くの人に知らせる」だったはずなのに、今の人は「活を入れる」「激励する」みたいな意味に勘違いしている、だそうで……

あと、漢文表現で一つ例をあげる、「すべからく」の使い方もそうですね。もともとは「ぜひとも」という意味なんですが、今では「みな」「すべて」の意味で使われたりしています。

でも、これって誤用なのかな、と思うんです。

なぜかって、私のようにふるーい昔のことを仕事の対象としている人間からすると、
「言葉なんて移り変わって当たり前のもの、今の時代だけ移り変わらないなんて傲慢な考え方を、なぜ抱けるんだろう」

と思っちゃうからです。もちろん、言葉の意味が変わるためには、多くの人が「え、この意味が、もちろん原義なんでしょ」という変化が起こることが大前提ではありますが。たとえば、『論語』という古典には、

・人、遠き慮りなければ、近き憂いあり(人は先々のことまで考えておかないと、足元から崩れてしまう)

という有名な孔子の言葉があります。これが「遠慮」という言葉の出典で、もとの意味は「遠い先のことまで考えておく」ことなんです。でも、この意味で現在使っている人は誰もいません。「檄を飛ばす=活を入れる」「すべからく=すべて」が誤用というなら、なぜこちらも誤用といわないのかって、ちょっと不思議 な話ですよね。

思うに、言葉っていつの時代も変化し続けるもの。人間、若いと頭が柔軟なので、そうした変化について行けるわけですが、段々頭が固くなってくると、もうついていけないわけです。そうすると、つい言いたくなるんですね。
 「今の日本語は乱れている」

と。でもそう口にする人は、良く考えてみると、たとえば自分のおじいちゃんおばあちゃんと比べると結構意味の変わってしまった言葉を話していたりするわけです。「日本語が乱れている」と嘆いている当の本人が、実は若かりし頃、言葉の変化に乗っていた当事者だったかもしれない、という可能性を想像できない のは、あんまりヨロシクないことのように感じてしまうのですが……
 でも、女子学生の話す不思議な日本語とか、ある程度年いった人間には、まるで理解できない言葉も世の中にはたくさんあるわけです。そうしたものにも、ついていかなければならないのか? もちろん、そんな必要はありません。だって、あれは基本的に仲間内に向けた言葉、不特定多数とコミュニケーションを取ろ うとするものではないからです。これは専門用語が飛び交う学問の世界もまったく構図としては同じです。両者ともに、基本的に仲間内に向けた言葉なのに、それを不特定多数に語ってしまってコミュニケーション不全を起こすことがあるのは、よくある話だったりします。

孔子ってこんなことも言っています。

・辞は達するのみ(言葉は相手に伝われば、それでよい)

この文脈でいいかえれば、たとえば「檄を飛ばす」という表現も、「自分の意見を多くの人に知らせる」という意味の方がで通じそうな状況であれば、そちらを使う。逆に、「活を入れる」「激励する」の方が通じそうであれば、そちらを使う。相手が理解できることが一番重要、という指摘になるわけです。

今のたとえでわかるように、孔子って頭の固いおじさんではまったくなかったんですね。でも孔子を引用する人は、案外頭が固かったりするんですね……。あ、これはもちろん自戒の言葉です、ハイ。

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